人をキライになる理由はいくらでもあるのに、
人を好きになる理由は大抵一つだ。
信頼ということ。
今まで僕が、
必死になって誰かに
指導したり
怒ったり
諭したり
教えたり
問い詰めたり
してたのは
それってきっとその人に期待してたからなんだな。
それが続いて相手変わらなければ
期待してた自分を叱責し始めることになって。
それで今度は
相手から
何も言ってくれないって不満が出た時
それが僕の辞める時なのでしょう。
Facebookに於けるコミュニケーションにずっと違和感があったけど、それって結局突き詰めると“イイね!”があるからなんだよね。
イイねシンドローム。
自分の投稿に「どうだ?(ドヤ顔)」って付けるとさもありなんって思える。
型にはめようとすることは
“仕事”管理する上では容易いよね
でもね、それはつまり
“人”の可能性を摘んでしまってることにもなるから。
それはつまり
人に期待してないということ
に繋がるんだよね。
そんな場所には熱意は生まれません。
歓びを見出すことも出来ません
僕が最もイライラする女の特徴は、
毛先をいじりながら
早口でまくし立て
語尾が強く
断定口調である女
そして、
格好だけは清楚な癖に
顔は厚化粧で素顔は期待出来ない女だ。
多分ね、毛先をいじる(甘えたい)行為を強い口調で覆い隠しているところにニンゲンとしての薄さと汚らさを感じてしまうからだろう。
若い頃、それこそ10代中盤の思春期にはつるむこと、組み込まれることに拒絶反応を示すようになってくる。
それはまさに自我が自分の中で持て余す程に大きくなってきてるって証左だとは思うけども。
自我が大きくなれば独りになることを選択しそうなのに、結局はつるむ。
社会的、と言えない場所で、社会的、と言えない人達とつるむ。
これはきっと抱えきれない自我を集団(マイノリティ)に投じることで自我の取り敢えずの拠り所にすり替えてるからだと思う。
そういった意味では、この多感な時期に独りに放り出されるってという苦悩みたいなもんな味わっておくべきな気もする。
今の子達の一番の悲劇は、コミュニケーションツールに自分を包囲され過ぎていて自我と向き合えないまま、剥き出しでひ弱な自我が育ってしまうことだ。